第6回|羽ばたけ! 現代のナイチンゲール!
沢村 恵子(仮名)さん【56歳・主婦・奈良県】
生まれついてのナイチンゲール気質だった娘
奈良県在住の56歳の主婦です。 24歳で嫁ぎ、数年後、比較的安産で娘を出産。
周りの新米母さんたちが、やれ夜泣きだ、母乳が出ない、なんてオロオロしてる中、育児ノイローゼなんて私には無縁だわ、なんて思わず心の中で高笑いしてしまうほど育てやすい子でした。
母乳をごくごく音を立てて飲み、何の問題もなく、すくすくと育っていっている我が子を見るにつけ、目を細めながら育てていました。
娘の赤ちゃんとしての優等生ぶりは、近所や親戚でも有名で、もう私は鼻が高いったらなかったですね。
まさに自慢の娘でした。
主人も育児に協力的で、まさに絵にかいたような幸せ一杯ニコニコファミリーだったんです。
でも人生は修行だ!とはよく言ったものですよね。 一家の大黒柱の主人が糖尿病になり、我が家の空気は病気一色に染まってしまいました。主人には厳しい食事制限が課せられてしまい、家族で楽しく外食なんて夢のまた夢。
家での食事も、病院からもらった糖尿病に使用禁止の食材のぎっしり書いてあるプリントと首っ引きで作らねばなりませんでした。
私たち用の普通食と主人の病人食の作り分けにかかる時間は大変そのもの。
忙しい時などはイライラして思わず主人に文句を言うことも……。
主人の看病に追われ、大切な育児をおろそかにせざるを得なくなってきました。
そうこうしているうちに、やがて次第に私と主人の間に不穏な空気が漂い始めました。
夫婦としての会話も、ギシギシと不協和音を奏でるようになっていったのです。
そんな時、私たち夫婦の愛の架け橋となってくれたのが、他ならぬ娘でした。
わずか3歳にして、私の横に立ち、台所を切り盛りしてくれるようになったんです。自分の幼児用いすを踏み台にして、きゅうりを板擦りして果物ナイフで輪切りにしたりはお手の物。
教えてもいないのに……私のやっていることを見ていたのですね。
娘はそうして料理を作っては、主人にふるまっていました。
「お母さんと一緒に、お父さんのために作ったよ。早く元気になってね」
娘の手料理とこのフレーズは必ずワンセットでした。幼い娘なりに、私たち夫婦の現況を察知していたのですね。
そんな娘を私たちはナイチンゲールの様な子だと褒めたたえ、「ミニ・ゲール」とほめそやしました。
そして、そんな娘のおかげで、私たちはまたもとの仲睦まじい夫婦へと戻ることができたのです。
ミニ・ゲールの結婚事情
小・中・高・専門学校と、主人の糖尿食を作り続け、看病していた娘のところに突如転がり込んできたお見合い話には驚きました。
何が驚いたのかというと、相手さんと同居が必須条件、しかも祖母・曾祖母の介護が待っているのだというのです。
正直言ってそんな苦労はさせたくありません。
ところが娘は、相手の男性と意気投合したようなのです。
あっという間に話は結婚へ向けて進んでいきました。
「お母さん、留袖、虫干しするから出すよ」
と晴れやかな声で私の着物ダンスから留袖を出し、鼻歌交じりに広げる娘に私は、
「そんなところ嫁に行っても苦労するだけや!」
と叫び、留袖を力任せに奪いとり、留袖は破れてしまいました。
いくらミニ・ゲールが看護専門学校を卒業、看護師として活躍しているとはいえ、それとこれとは話が別です。
どうすることもできず、毎晩枕を濡らす私に、主人がこう言いました。
「ミニ・ゲールの天職なんだから。な、応援しようや」
このセリフに私の脳裏にミニ・ゲールの、主人の糖尿食をせっせとこしらえていた過去が走馬灯のように思い出されました。
そしてこの時私はやっと、つきものが落ちたように娘の結婚に納得したのです。
結婚式では私はレンタルの留袖を着ました。自分の持っている留袖が破れた理由を、留袖レンタルサービスのスタッフさんに笑って説明するほど、私は娘の結婚に前向きになっていました。
私たち夫婦は、このお化粧料をそっくりそのまま娘にあげました。介護疲れになったとき、このお金を使ってショッピングでもして気晴らしにしてほしい、というのがその名目です。 ミニ・ゲールは立派なナイチンゲールになりました。
私の手探りの育児もまんざら間違いでもなかったのかな、と今では思っています。
赤ちゃんの頃から優等生だった娘よ、大丈夫、あなたならどんな苦境に立たされることがあっても、乗り越えられる! お母さんがそのことをいちばんよく知ってるよ。